2015年7月27日月曜日

夏が来れば思い出す -青春時代の一人旅- 【No.58】

 台風11号一過。それより以前に梅雨前線が霧散していて既に夏空が広がっていました。梅雨明け宣言の難しい今シーズンでしたが、22日近畿地方の梅雨明け宣言となりました。遅れて極東に飛火したMERS(コロナウイルス感染症)もさすが韓国、封じ込めに成功した様です。終息宣言が公式にはWHOから間もなく発表されるはずです。感染症は無知、油断、(心を含めた)貧困等の人の性(さが)に便乗してその勢力を拡大します。日本では今年デング熱の流行が注目されます。2013年、2014年に3種類のデング熱ウイルスが日本に侵入して来ています。外国人観光客の増えている日本においては、新興あるいは再興感染症は一過性の事象では済まないでしょう(前回参照)
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou19/dl/20150522-01.pdf

 それにしても台風の影響で長雨が降りました。7月16日夜から18日未明まで実に良く降りました。しかし神戸では24時間雨量が観測史上最多(300ミリ超)にもかかわらず、高速道路、交通機関の運行に多大な支障を来したものの、水害や土砂災害は全般的に軽微だったのが何よりでした。JRの運休は新基準に基づく慎重運行で多大なる混乱と不便を住民にかけた様です。慎重は行き過ぎると迷惑です。慎重とは事なかれ主義の裏面であり担当者自身の身分の保全のためである事が組織としての大義名分の陰に隠れている事があります。臨機応変、柔軟な姿勢は知識と経験そして勇気のいる事です。徐々にこの日本から薄らいで行っている気概の一つでしょう。そんな中、祇園祭(前祭山鉾巡行)は挙行されました。関係者によると、山鉾巡行は神輿渡御(みこしとぎょ)の露払いとして悪霊を集める祭礼とされ、原則は「小雨決行、大雨強行」。悪天候を理由に中止された例は記録が残る限りないといいます。JRと対比すると、ちょっと小気味のいい、決定でした。

 さて、青春時代によく読んでいた月刊誌は“旅”(岡田喜秋編集長)でした。よく出てきた読者の言葉は「孤独を愛し」でしたが、なんだかはぐれもののひがみ根性みたいで、世捨て人の旅とは一線を画さねば、と一人粋がっていました。旅こそ未知なる物への憧れであり、自分試しであり、nomadとして見つめる目は輝き、責任あるフリードムを心に宿していなければならない。そう思うにふさわしい体重(55Kg)・体形であったことは事実ですね(笑)。現在66〜67kg腹囲メタボ基準オーバー。
 昭和38年今から52年前の7月30日の夜には長野県阿寺川附知又にある営林署【深山寮】に泊まっていました。大学に入学した年の夏休み7月29日から8月5日まで、中央本線落合川「これより北 木曽路」の碑から、「これより南 木曽路」の碑のある日出塩までの一人旅に出かけていました。前日の29日の晩は旧中仙道の石畳を歩いているときに声を掛け合った山浦さんという上諏訪中学校の先生と一緒に妻籠永昌寺に泊まりました。翌日は分かれて私が乗りたかった森林鉄道のある野尻駅に行きましたが、50年も前の話、観光の雰囲気は皆無です。声をどうかけたらいいかも分からず、結局駅前まで戻って半ばあきらめて喫茶店に入りました。左半分が確か八百屋部、右半分が喫茶部と看板にあったように記憶しています。15kgのリュックを背負っている風体ですから、一人旅の身である事は歴然。若いといってもそこそこ年上のお店の女性が、昼食に頼んだ冷麺を運んできて声をかけてくれました。駅の向こうの森林鉄道に乗りたいんだけれど、どうしたらいいかな、人もいないしなどと話したら、あ~それなら私の友達が上(森林鉄道の終点)にいるから連絡しといてあげる、黙って乗っていたらいいのよ、という話になりました。

 この森林鉄道が今人気の阿寺川を遡行する野尻営林署阿寺渓谷林用鉄道だったのです。
 個人の凄いHPを発見しました。http://rintetsu.net/list/nagano06.html
 一般的にはhttp://www.shinshu-tabi.com/adera.html

 13:05野尻駅裏貯木場を出発した列車編成は内燃機関車1台に木製のかまぼこ型の小さな(詰めて8人程度かしら)客車そして木材を乗せる空の運材車。乗客はまかないらしき小母さん、作業員2人、営林署職員風1人そして私の5人です。1時間が無言のまま過ぎましたが程なく営林署職員の方とお話が始まり、それでは所長に掛け合って寮に宿泊できる様にして上げましょうと申し出てくださいました。彼は農林事務官の古瀬さんでした。営林署深山寮についたのは15:40。早速所長に掛け合ってくださって、宿泊許可が下りました。野尻駅前のお店からも寮母さんに連絡が行っていて、聞いていますよ、と暖かい歓迎を受ける事になりました。たぶん山奥の作業所の寮に作られた視察等で訪れる賓客のための客間だろうと思います、木曽にふさわしい檜造りの立派な部屋に通されました。夕食に続きお風呂、そしてふかふかの上等なお布団で休む事ができました。想像だにしていなかった事態です。細面の寮母さんはたおやかで(何せ18歳の男子校出身者の一人旅で)山奥の男社会でどう生きておられるのだろう、津々と深まる山奥で慈母観音の様に思えて来ました。
 翌日営林署の配慮で、若い技官小山誠君と一緒に近くの標高1810mの奥三界岳に登山をしました。山の湧き水は甘かったし、遠くにチェインソーの音がこだまして、寮母さんの作ってくれたおむすびは殊の外美味しかったのを覚えています。13:50寮に戻り、14:30の便に乗って下りはちょっと早く16:20野尻駅に戻りました。
昭和38年7月31日、食事料3食 400円也。
 その後旅から帰って、寮母さんにラブレターもどきの感謝の気持ちのお手紙を出しましたが、残念ながらお返事はもらえませんでした。生きておられたら90歳近いでしょうか。
 野尻駅に着いて喫茶部の女性にお礼を述べ次の駅に向かいました。大桑村須原。ここでもすばらしい経験をしました。(つづく)    盛夏に向かいます ごきげんよう

医公庵未翁 記



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