2011年3月23日水曜日

奈良の都 まだ寒き早春の心の旅 【No,10】

 奈良の翌日はしとしと小雨模様。雨にぬれた小砂利を踏んでの春日大社は裏山に霧が立ち昇り幻想的でした。鹿に追いかけられている卒業旅行らしき男性集団の喧騒は来るべき春の新生活への門出としては許すべきかもしれません。一方、万葉植物園は侘しげな梅のみが見どころで、まだまだ花の季節には遠い3月の上旬の静けさでした。午前中の予定は吉城園と依水園の寧楽美術館です。吉城園では馬酔木のピンクの蕾が鮮やかでした。依水園との境を流れる吉城川は古代からここを流れているのだそうで、奈良は昔の川筋を変えず街がそこに今も息づいて居るのが特徴です。吉城園(よしきえん)は、「興福寺古絵図」によると同寺の子院である摩尼珠院(まにしゅいん)があったところとされており、明治に奈良晒で財を成した実業家の邸宅となり、大正8年(1919年)に現在の建物と庭園が作られました。園内は池の庭、苔の庭、茶花の庭からなり、苔の庭には離れ茶室があります。そうです、確かに茶道で使う茶巾の袋には奈良晒と書いてありました。

 続いてお隣にある依水園並びに寧楽美術館を訪ねました。開催中の企画展示は【東洋陶磁】の世界、なかでも砧青磁不遊環花生が入り口正面奥に飾られていて、なるほどこれが砧青磁なのだと思える艶を館全体の暗さの中で余計に際立って主張しているようでした。帰り際、単に切符もぎりのシルバー人材と思っていたおじさんの奈良歴史への造詣の深さと、町への愛着を感じさせるお話に大いに感動しました。目に着いたのが辰砂の鮮やかな焼き物、聞くと柳生焼きだそうです。柳生焼きとは柳生十兵衛の祖母「春桃御前」が馬頭観音を焼いたのが始まりと言われており、その後は藩の性格上「お庭焼」の域を出なかったそうですが、明治に至り、長く中断していたこの窯を、井倉家先々代より再興と研究に明け暮れ、遂に先代喜太郎の代に柳生焼と成し、敏夫(1938年生まれ)氏そして幸太郎(1970年生まれ)氏へと引き継がれているのだそうです。酒器の一つである井倉敏夫氏の鹿鳴♪盃を3000円で購入しました。酒を吸うとき鹿の鳴き音がする仕掛けの御猪口です。
 お昼は三秀亭で「麦めしとろろ」とカミサンはワンランク上の「うなとろ御膳」。もちろん程よく分け合う仲ではあります。食後には奈良屈趾の池泉回遊式庭園の前庭と後庭の散歩を楽しみました。若草山、春日山、御葢山を優しさとしての遠景に、東大寺南大門を見上げる中景が人為の力強さとして肉薄する借景は見事というほかありません。季節を選べば人の多さは別として印象深いひと時を過ごせることでしょう。ここでは白い馬酔木の花が印象的でした。そうそう、馬酔木について、馬酔木の名は、馬が葉を食べれば苦しむという所からついた名前です。多くの草食哺乳類は食べるのを避け、食べ残され、その結果草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがあるそうです。たとえば、奈良公園では、鹿が他の木を食べ、この木を食べないため、馬酔木が相対的に多くなっている。すなわち馬酔木が不自然なほど多い地域は、草食獣による他の樹木の食害が多いことを疑うこともできるのだそうです。

http://www.isuien.or.jp/index.html

 奈良市内を楽しんだ後、茶道に関係深い大和郡山市の慈光院を訪ねました。三千家ではありませんが、武家点前である石州流の茶席があります。寛文3年(1663)片桐石見守貞昌(石州)が、父貞隆(慈光院殿雪庭宗立居士)の菩提寺として自分の領地内に、大徳寺185世玉舟和尚(大徹明應禅師)を開山に迎え建立した臨済宗大徳寺派の寺院で、寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま三百年を越えて眼にすることができるという、全国的に見ても貴重な場所となっています。 三千家が利休の養嗣子少庵そして宗旦の家系であるのに対し、長男道安の流れを汲み現在に至っています。

 

 

 私が2年前に学会の帰りに訪れた長崎は平戸閑雲亭(鎮信流)と縁の強い流派となります。今思えば恥ずかしくも、訪れた閑雲亭の下調べもせず、お道具の並びを触っていたらどうぞお点て下さいと御挨拶を頂き、武者小路流でお点前をさせていただいた経緯があり、なんと心の広い流儀なのだろうと思っていたのですが、慈光院を訪れ、尾関紹保閑栖の御話を聞いて石州流の極意を感じられたひと時でした。紹保閑栖にはずいぶんお時間を頂き、玉舟和尚の逸話、お茶室の説明、ここに座ってみなさいとお庭の見方、消えかかりそうな額の意味など教えていただき、お写真を摂らせていただきました。ありがとうございます。早速帰宅して博報堂代表(平成7年当時)近藤道雄氏、大徳寺大仙院住職尾関宗園氏と共著の【主客一如】の一冊を、すみません、古本で購入しました。なぜ古本か?紹保氏のサイン入りとあったからです。そしてようやく、以前武者小路千家の木津宗詮宗匠(高校の1年先輩)に読めと勧められた「平心庵日記:失われた日本人の心と矜持」の著者がご子息であるこの著者の一人である近藤道雄氏であることに結びついたのです。慈光院の御庭、是非、お勧めです。
 最近作った私の名刺にはラテン語で【Quid agam?】(何をなすべきか)と書いてあるのですけれど、慈光院の扁額【什麽】(そも、何故に生きる)と通じるのではないかと、ちょっと、石州流に心を動かしている昨今です。

http://www1.kcn.ne.jp/~jikoin/
http://www.chinshinryu.or.jp/


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