落語家といえば若手でぐんぐん力をつけてきている高校の後輩に当たる京都大学出身の落語家の非常にローカルな高座を最近楽しんでいます。西区は新町、ちょうど阿波座駅と西長堀駅との間の、新なにわ筋沿いにある〝和イタリー料理「京町屋カフェ 高津屋」。隠れ家ダイニングと称していますがカミサンと数ヶ月毎に開かれる高座に出かけています。ワインを飲みながら8畳一間でヒザつき合わせての高座設定は噺家さんも喋り難いとは思いますが、より近しくお話が楽しめます。時間があると後の食事をご一緒できるので、大いに盛り上がる結果となります。去る3月11日は創作落語の第4回京大宇宙落語会でお披露目のあったオーロラにまつわるお噺でした。秀逸!切れ味がよかった。 http://cafe-kouzuya.com/ http://uchu-rakugo.jimdo.com/
私事ながら2月28日で古希を迎えました。生まれた昭和20年の戦史を見ますと、終戦を迎える半年の間に国内のいたるところが空爆を受け、生まれ故郷の相生にある:播磨造船所が空襲を受けたのは、1945年(昭和20年)7月28日午前7時10分のこと。米艦載機グラマン約30機が来襲、機銃掃射を行い、 250kg爆弾と無数の10kg爆弾を投下。この空襲によって、運輸課長以下職員10名、工員21名、学徒1名、その他7名、計39名の死者と多数の 負傷者を出した(引用):そうです。私の母の義兄も犠牲者の一人となりました。3月17日神戸西地区(妹尾河童著;少年H)の空襲に始まり、今の東灘区も浜に近く川西航空機甲南工場(現新明和工業:世界に誇る飛行艇US-2。当時は九七式飛行艇、二式大型飛行艇、局地戦闘機紫電/紫電改を開発・製造を担当した製造会社)があったせいでしょうか5月11日、6月5日とB29による焼夷弾の絨毯爆撃を受けて焼け野原になりました。幸いにもこの6月の空襲日には宝塚市仁川の母方伯母の家にいて山越に赤く染まる空を両親は心配げに見上げていたのだそうです。気丈な祖父母の活躍で火は隣家で止まり、我が家は神戸震災で全壊するまで以後50年間持ちこたえてくれました。 古希を祝って西クリニックスタッフからはうれしいプレゼントももらいました。あ~歳をとったな~
さて、冬も終わり春がやってきます。我が家の梅も散り、昨秋に植えたしだれ桜がどう芽吹いてくれるでしょうか、楽しみにしている今日この頃です。3週間ほど早めに流行し始めたインフルエンザは2月中旬頃からすばやく収束に向かいましたが、感染性胃腸炎はまだ根強く流行っています。まだまだ今シーズン牡蠣を食べていないな~と思いますが、お正月に泉北の友人から贈って頂いた能登牡蠣の一斗缶は食べ応えがありました。水温も上がって来てノロ・サポウイルスも海にそろそろ集積し始めているでしょうか。牡蠣は来シーズンを待つことにしましょう。ごきげんよう。
医公庵未翁 記
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