2012年5月9日水曜日

澤良雄君!偲ぶ言葉 【No,32】

 中・高と同級の友人が亡くなりました。享年67歳。彼は東大の建築を出て、世界を旅し、国内の茶室や能舞台を殆ど巡って来ました。確か7~8年前だったと思います。池田市の逸翁美術館で開催されていた展示会の茶杓に「え~のが出ていたやろう」と彼が言っていたのですが、正直その時にまだその茶杓に感動できるほどの私ではありませんでした。先日4月22日神戸の栄光教会で偲ぶ会が行われそのあと彼の残してくれたDVD,CD,そして出版物を再度ひもとき始めている現在です。実は2年前、彼に遅れること5年、茶杓が見えるようになったのです。それは御影にある香雪美術館で、細川護煕さんの創られた茶杓を見た瞬間でした。カミサンの出身地である肥後のお殿様細川護煕さんの作品は大好きですが、以前のコラムにも書いたように危うく【細い】要素が彼の全ての作品に読み取ることができると私は感じます。彼の書が最も分かりやすいかもしれません。茶杓やお茶碗という立体の造形作業では読み取ることが困難です。でも紙と言う平面だからこそ如実に現れる。心の力動即ち書くという行為の中に現れる闊達な心の波動が表す時間軸の加重の変化が字に表現されるはず。墨の濃淡?かすれ?筆の流れの中で力の加減による紙への圧力の上下動があるはず。それが水平動のみでは浮かび上がる書にはならない。紙に心地良さそうに収まっている書は形成美人に思えます。彼の書は最初から最後まで、力が均等に分散していて、形として旨過ぎる。むしろ旨く書けているから均一な筆の運びに物足らなさを覚えるのかもしれません。乱がほしい。墨の濃淡?かすれ?手首は動いているが腰の重心が動いていないように見えるのです。これは全く個人的な感想であることを御断りしておきますが、複数の書を観た後、彼の削った茶杓を観たその時に、茶杓の“色気”が分かった気がしたのです。
 男子校のグリークラブに属していて、彼はボーイソプラノに近いテナーで私はバリトン。高2になったら指揮をするから木戸口!マネージャーやってな、などという事を話したことがあります。結局高2になって指揮(部長)はA君が担う事になり、どちらもパートとして参加するだけのグリークラブで終わってしまいました。大学は東京と大阪で、建築と医学とでは接点がなく随分の月日が経ちましたが、彼が伊丹にアトリエサワという設計工房を立ち上げ、伊丹市の迎賓館【鴻矑館】(1984年9月開設)そして姉妹都市ベルギーのハッセルト市へ【鴻矑館】(1992年11月完成)寄贈に携わり始めたころより、彼の講演会の案内を頂いたりして約25年ぶりの再会を果たしました。伊丹で行われた彼のイスラム建築の講演は特に興味深く、緯度の高い日本での庇(特に冬には太陽が深く屋内に入ります)、緯度の低いイスラム圏では建築家は太陽高度を意識した影の意匠をどう取り入れているのかという質問をしたらあとで、「え~質問してくれたな~」とおほめの言葉をくれました。1974~1989年イスラミックデザイン紀行の写真集(フォトCD)が手元に残っています。

 

 

 私が平成18年日本未病システム学会第12回の学術総会会長を担当するように決まってから、官休庵武者小路千家のお点前を習い始め、学会長プレゼンテーションの一つとしてお釜をかけようと思い立ちました。爾来、彼に茶室の話や茶道具の見方などを教授してもらう事になり、親交が深まりました。学会では市民公開講座の一枠をお願いし、【書院、海を渡る 風土と建築】というテーマで講演をしてくれました。上に述べた【鴻矑館】の顛末です。気候・風土・生活様式の異なる国に純日本建築を建てる苦労話から、日本の建物~住生活を見直すストーリーです。実は、私が主宰したこの学会のメインテーマは【伝統に根ざすスローライフを今に活かし、明日を拓く未病 時の流れ・心・次世代をキーワードとして】だったのです。澤君が一時参加していた茶道具の権威、小田榮一さんの主宰する茶会でのお道具解説の録音をくれたり、貴重な建築写真をDVDに焼いてくれたりして当時随分勉強をすることができました。私の学会趣旨との関連で考えると、彼の公的活動の最後となった鳥取環境大学での教鞭では鳥取地方の建築物の解析が行われ、これは決して一流の設計者の輩出ということではなく、地域の生活に根差した意匠の伝統と人の諧謔、改築の愚等が次世代へ引き継がれたのではないかと推察しています。

 5月7日の連休明け、高校の1年先輩であり武者小路千家の宗匠である木津宗詮宗匠からのお葉書が2通自宅に届きました。ご多忙で澤君の葬儀、偲ぶ会に出席できなかった経緯が述べられており、この秋に大阪歴史博物館で開催される展覧会の情報が書かれていました。【聿斎宗泉と彼をめぐる大阪の職方達】のなかで、澤君がある施主の方から貰って持っていた聿斎(しんさい)宗泉(宗詮宗匠の曽祖父)自筆の図面が展示されるそうです。実は澤君からの申し出でこれを直系である宗詮宗匠にお渡し(お返し)したいという事で、青焼き(コピー)の後、2006年(平成18年)11月18日私の仲介で宗詮宗匠のお宅にお伺いし、お酒と夕食を頂きながら4時間半、お庭の設計から茶室のお話と、宗匠と澤君の話は弾みました。御縁は不思議なもので、秋の展覧会が楽しみです。神戸に移ったアトリエサワの二階には茶室があるそうです。宗匠にもお出ましいただき、一席お茶を点てられたらなと思っています。

 彼は、ヘビースモーカーでした。60歳になって頓に閉塞性肺機能障害が進んできていたようです。伊丹時代に尼崎の病院を紹介しCOPD診断の基に治療を開始していました。神戸に引っ越してからも治療を続けていたようですが、詳細は不明です。肺性心と推測しますが、急な経緯は不整脈が出たのでしょうか。喫煙は自らの選択とはいえ、彼がけっして望んでいなかったタバコの慢性害と言えるでしょう。  少し早かった! 有為な人を喪失しました。合掌

1 件のコメント:

  1. 突然お邪魔いたします。ベルギー在住の藤野ユミリと申します。Hasseltの日本庭園を設計された澤良雄氏について調べております。4月の帰国の折に、澤氏が生前に書かれた雑誌の記事などを集めようと思っております。この記事を拝読するに、お二人の深い友情を知り、不躾ながら質問なのですが、この記事に添付の「at 書院海を渡る」という雑誌は、Hasseltの鴻臚館を取り扱った内容なのでしょうか。

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