2010年12月27日月曜日

2010年 師走に 未病の続きのメッセージ 【No,5】

 大雪に連れられて京阪神も初雪の報。寒くなりました。ついに2010~2011年シーズンのインフルエンザ警報が厚生労働省から出されました。やや早い感があるのは、昨シーズンの後手行政をカバーしようとする意図が背景にあると読み取れます。冬休みに入るし、年初までは小康状態で収まるでしょうが、お里帰りがどのように全国的にインフルエンザを万遍なく拡げるか、松の内明けが不気味な予感です。
28日(火曜日)には約55年ぶりに清荒神さんにお参りする予定です。幼稚園から小学生低学年頃、祖母に連れられての師走の行事の一つでした。確か「お多福さん」できつねうどんを食べる、お飾りを買う、そして長い参道の記憶がありますが、寒い早朝の神社は子ども心に何か新かなそして変わらない世の中のしきたりを感じさせるものがありました。明治28年生まれの祖母は神戸御影にある仕出し屋の娘で、兵庫県立第一高等女学校卒の才女だったようです。ある年、荒神影向の榊で、当時の50円新札(昭和26年12月1日発行)が子どもの目に付きお賽銭として拾ったのですが、きまりでは翌年倍にしてお返ししなければならない。家じゅうが大騒ぎした記憶があります。台所、火の神様の荒神さん。よろしくお願いします。
未病は続くと書きながら、脱線ばかりのコラムが続きました。その続きを掲載し、今年の締めといたします。皆様良いお年をお迎えください。

 さて、一昨年(平成20年度)から、特定健診、特定保健指導が施策としてスタートしました。40歳以上75歳未満を対象に、被保険者と被扶養者を対象としてメタボ検診を行うという内容で、これは国民皆保険の我が国ならではの重要な健康施策としての提言であり、まさに従来の既病治療から生活習慣病の発症を治未病する国民皆健診への第一歩と解釈することが可能なのです。お分かりのように未病とは決して中医学や漢方医学の概念ではなく、むしろ現代においてこそ活性化されるべき養生訓であると捉えられるでしょう。
 我々日本未病システム学会では、未病の概念を次のように述べています。

       ・自覚症状はないが検査では異常がある状態
       ・自覚症状はあるが検査では異常がない状態

ここで、「検査」そのものを考えてみましょう。採血がすぐに思い浮かべられる検査でしょう。さらに心電図、呼吸機能、各種負荷試験等の生理学的検査やレントゲン、胃カメラに始まる映像、画像診断が次に控えています。未病の定義で、「検査では異常がある状態」と述べられています。でも、これは受ける検査の内容により異常と診断されるタイミングや精度が替わることに皆様もすぐに気付かれることでしょう。より精細な検査もさることながら、画像診断という形態学的に明らかな変化をきたしている状態の以前に、実は機能的に“へばっている”状態があるのではないか?と考えれば、より早く未病状態を知るには、画像診断に先行する信頼度の高い機能検査の開発が今後の未病診断のカギを握っていると言えるでしょう。このあたり、未病はとてもファジーな定義にならざるを得ないのが現状です。

私は20数年にわたり周産期母子医療センターでハイリスク妊娠を専門とする母性内科で働いてきました。出生体重2500㌘未満を低出生体重児といいますが、今や日本で生まれる子どもの10%弱が低体重出生なのです。思春期を迎えてこれらの子どもたちは生活習慣病をより多く発症するあるいは未病として抱えていることがわかってきました。では、皆様、ご自身の出生体重をご存知ですか。高血圧を基とした各種循環器疾患や糖尿病の成人例を長期にわたってフォローしていくと、より早期にそしてより重症化する人たちは、低出生体重の人々であったことが報告されるようになってきました。生活習慣病胎児期起原説に端を発し、あらゆる疾病の基本は胎内から乳児期早期に起因するとさえいわれてきています。女性の妊娠(胎内環境)、そして初期の育児環境の大切さを、健康という贈り物として我々は次世代へ伝えていかなければならないのではないかと思っています。これが未病としての重要な課題の一つであることを、本日私は皆様にお話ししたかったのです。
最後にフーコー(Foucault M)の養生論を読んでみましょう。多少注釈も入れてみます。「養生(未病に置き換えてみましょう)の目的は、できるだけ長く生命を引き延ばすことでも、できるだけ良い競技成績(社会的実績を含む)を挙げることでもなく、むしろ生命(あるもの)に定められた限界のあるなかで、生活を有益で幸せなものにすることにある。(中略)むしろ、人々がおかれる可能性のある各種状況に反応するための一種の手引書であり、さまざまの状況に応じて自分の行動を調整するための一つの協定(納得事)である。(中略)自分の体へ正しい、必要にして十分な配慮をいだく、そうした主体として自己を構成する一つの方策の全体である」(渡辺守章、田村淑訳)
健康とは身体的に疾病がないことではなく、未病を知り、自己の信条を持ち、その遂行に邁進できていることが社会的、精神的、時に霊的に豊かに、活き活きと自覚できる状態ではないかと考えています。
そうなのです! 聖人はあなたなのです。

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